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待ちに待ったブログシステムが完成した。気の向くままに、感じたままに
自由に書いて行きたい。
追憶
夕方 6時の時刻に 事務所でのんびり
仕事をしている自分が、どこか 居こごちが悪いと
母が亡くなって しばらく感じた。
この1年 自宅療養している時は 早く帰って
母の食事を作らなければと、
また 病院に入院をしている時は
食事の時間に間に合うように、行かなければと
時間をいつも 気にする習慣になっていた。
31年前 妹を事故で亡くした。
母の目の前で、妹は自転車で、車とぶつかった。
ほとんど 外傷はなく、意識もあり、話も出来て、
救急車で病院へ運ばれたが、誰も妹が死ぬとは思わなかった。
2日後 突然 容態が急変し、妹は息を引き取った。
脳内出血をしていたらしいのに、なぜ きちんと検査を
しなかったのかと、悔いが残る。
まだ 若かった私は、葬儀の時、
深い悲しみの中にいる父と母の背中を見ながら
死と言うものに、漠然とした不安と恐怖を感じた。
と同時に 父と母が もし 死んだら どうしようと
思ったのを鮮明に覚えている。
死と言うものが まだまだ 身近ではないと感じていた私は
父と母に永遠に生きて欲しいと
その時 切に思った。
母の遺品を整理していたら 父の日記を見つけた。
父は13年前に 88歳で亡くなっている。
その父の日記を母は大事に 時々 読んでいたのかも知れない。
その日記に 妹を亡くした時の 父の気持ちが川柳にしてあった。
娘を亡くした父親としての気持ちが どれほど 悲しいものが
切ないほど 日記に認めてあった。
私が「人間」「心理学」に最初に興味を持ち始めたのは
妹の死に関係している。
個々の個人的な「人間」に興味があるのではなく、
人間がもっている「普遍的な」部分に興味を抱いた。
人間とは 「何」 なのだろうか?
人の一生とは どのようなものなのだろうか?
人はどこから来て、どこへ行くのだろうか?
人の運命は決まっているのだろうか? などなど。
その疑問は 私の胸の中で づっと 燻ぶり続けていた。
「占い」「運命学」を6年学び 「心理学」を6年学び
今 その答えを 自分なりに見つけ 納得をし、確信をしている。
今の私なら 悲しみの中にいる父を もっと 理解し
励ましてあげれるのに、
当時の私は 私自身で精一杯だったと思う。
父は前向きな人で 楽天家な人だったので、
父の心配をあまりした事がなかった。
母は いつも クヨクヨする性格だったように思っていたが、
本当は強い人だったのかなーと 今 思ったりしている。
いろいろな 出来事が母をクヨクヨする性格にしたのかも
知れないとも思ったりしている。
ハンガリーの精神科医・心理学者のソンディは
「人には2つの運命がある。
1つは 強制的運命、もう1つは選択的運命」と。
仏教大学の教授の そのソンディの「運命分析心理学」の
事例研究会に毎月参加させて頂いている。
ソンディの理論によれば、人との「出会い」は強制的運命に
なる。
恋愛、結婚、友達、師匠、上司、先生、就職、職業、病気
などの自分の人生の重要な「出会い」は出会いたくて、
出会えるものではない。
しかし その「強制的に出会った」運命を
どう解釈し、何を選ぶかは、選択的運命になるとある。
私は 常々 人の人生は その人の
「思考」 → 「言葉」 → 「行動」で 運命が決まって行く
と思っているし、自分自身の人生を通しても実感をしている。
父と母はお見合いをし「運命的」な出会いをし、
それを 選び それを全うしたが、長い人生において、
納得をしていなかった部分も
多く あったのではないかと思いを馳せた。
でも 今頃 2人は天国で再会し、マテリアルのない、
魂と魂の関わりで、
魂と魂が似たもの同士だった父と母は
楽しくしているような気がしてならない。
投稿日:29.07.2007
今日の出来事
初七日
昨日 母の初七日が終わった。
白いカトレアとピンクのカーネーション、
淡いピンク色の欄の花、かすみ草の花束を持って
お世話になった医師へお礼に病院へ行った。
あの 母共どもお世話になった、あの部屋に、
この花束を飾りたいと思った。
医師と話をしていたら、また 涙がこぼれて来た。
7月19日 午前 3時27分 母はこの世を去った。
調子が悪いなりにも、前々日まで、食事をしていたが、
18日 朝 おかゆをほんの少ししか食べなかったのと、
夜は青りんごのジェリーを2口食べただけなので、内心
心配をしていた矢先だった。
寝る前に「おやすみなさい」と母の耳元で話し、
母の規則正しい、やや 浅い眠りの吐息を聞きながら、
私も眠った。
看護師さんが、午前1時に見回りに来られた時も異常はなく
2時も異常はなく、3時過ぎに、ちょっと 気になって、
唾が飲み込めていない可能性があるので、
吸入をしたほうがいいと、吸入器を持って来られて、
バタバタとしておられるので、私も起きて、心配そうに
母を見ていたら、そのまま 母は息を引き取った。
あっけなく、安らかに さよならも言わずに。
「お母さん! お母さん! お母さん!」
何度叫んでも 私の声はもう母には届かなかった。
「お母さん 長い間 いろいろと本当にありがとう!」と
母のまだ 温かいぬくもりのある手を握りながら、
何度も叫んでも もう届かない!
涙が止まらなかった。
入院後 母は自分の死を悟っていたらしくて
私のいない時に 医師に
「自分の命は後どのぐらいですか?
1週間?2週間?」と笑顔で問うていたらしいに、
私には 全く その素振りをしなかった。
私は もう少し 長期だと思っていたのに。
そして 亡くなる 2、3日前に、
母が突然 「ゆきちゃん お母さんは悲しくないよ」
と言った。
私は「何のこと?」と聞いたら、
母は微笑みながら、同じ事を2度言った。
「お母さんは悲しくないよ」と。
今 考えると それは 母の別れの言葉だったのかと思う。
多分 私を思いやって、「悲しまないように」の
事だったと思う。
最後の最後まで 母らしい。
今 私は 母とよく喧嘩した 日々が懐かしくて
胸が涙で一杯になる。
何よりも 子供の事ばかり、心配をする母に
「自立したら? 自分の人生を楽しんだら?」と
皮肉を言っていた 日々が懐かしくて
涙がこぼれ落ちる。
葬儀の日、叔父に母の若い頃の様子を聞いたら、
結婚したての頃、母は当時ではハイカラな
大きなつばの帽子をかぶって、やってきた、
お母さんはオシャレだったし、強い人だった事、
思いやりがあって、本当に優しかった事、
少し やんちゃな部分もあった事を教えてくれた。
お母さん、
本当に長い間 お世話になりました。
ありがとうございます。心より 感謝しています。
生きている時に、この言葉を もっと もっと言えば
よかったと悲しくなります。
医師が お母さんは 「本当に幸せだ」と死を予期しながらも
おっしゃっていたよ。普通の痛み止め以外は使用しなかったし、
本当に安らかな最後だったね。こんな事は めったにないよ。
喜んであげましょう。」と
慰めて下さった。
お母さん さようなら。
投稿日:27.07.2007
今日の出来事
かかわり
母の夕食の時間に間に合うように、母の病院へ行った。
母の耳元で、
「帰ってきたよ。調子はどう?」と聞くと、
母は目を閉じたまま、ニコッと笑って、
「誰?」と返事をした。
現在 母はせん妄症状がある。
現実とせん妄と混在している。
しかし 事実はしっかり把握できていて、
現実認識が全く分からない訳ではない。
母の「誰?」という問いに、
「誰か当てて」と言うと
母は「ゆきこ」と笑いながら答えた。
そして 「ペーターはどうしてる?上手くいっている?」
とも聞いた。
本当に母は、すごい。よく分かっている。
「頑張っているよ、だから 安心してね」
「分かった」と母は微笑む。
私が母に食事を食べさせなくても、
看護師さんがゆっくり やさしく 食べさせて下さったりする。
24時間の完全看護だから。
看護師さんから、逆に「無理をしないで下さいね」と
労わりの言葉を頂く。
本当に有難い。
しかし 出来るだけ、母に食事をさせてあげたい。
私が乳児の頃、母が私にしてくれたように、
ひとスプーン、ひとスプーン、
「これは おかゆ、これは 焼き魚」とゆっくり食べさせて
親孝行が出来る機会を与えられている事を感謝する。
母が食事をした後、私の食事の為に
「食事をして来るから、待っててね。」
というと、「食事は用意しておいたよ。テーブルの
上にあるから、早く食べなさい。」とせん妄になる。
母はきっと 気持ちの上では、
私の為に食事を用意したつもりなのだろう。
私は「うん ありがとう!!」と答える。
母と私は長い間 良い関係ではなかった。
いつも 喧嘩ばかりしていた。
母は「子離れ」ができなくて、
若い頃は、うっとうしいとよく思った。
また 母は人に合わせる人だったので、
子供の私にも いつも 合わせる人だ。
「母は もしかして宇宙人かも知れない」と
姉と冗談を言ったぐらいだ。
自分の意見はなく、いつも 父や子供である私たちに
合わせる。私はいつも イライラした。
「お母さんの意見はないの!!?」と。
いつの間にか、母に何かを相談したことはない。
相談しても、「ゆきちゃんの好きなようにしたらいいよ」と
答えて、姉には反対の「ゆきこのする事は、心配だ」と
言ったりするのを、聞くと本当によく喧嘩をした。
「言っている事と、思っていることが違う!!」と。
私は子供の頃、急性腸炎になり、死に掛けたことがある。
どちらかと言えば、気は強いが、身体は弱かったらしい。
だから 母は私をいつも 過保護にしていた。
それが、本当に嫌だった。
母が末期ガンと宣告を受けて、
私はまだ 親孝行をしていない事が辛かった。
母に反抗してばかりだったから。
喧嘩ばかりしていたから。
老いて、細くなった母を見ながら、
母の人生は、母にとってどんなものだったの
だろうかと思った。
父と出会い、家事や育児や、もろもろの事を
しながら、母はどんな気持ちで生きてきたのだろうか?
父はとても 幸せだったのは、知っている。
父はいつも自分の気持ちに正直で、
フェミニストで、真直ぐな人だった。
思ったことは、何でも話してくれた。
母は幸せだと思っていたのだろうか?
忍耐強くて、愚痴をはっきりと言えなくて、
過去と未来ばかり 心配をしていた。
表面的ではなく、こころの心底 どうだったのだろうか?
もし 幸せではなかったと思っているのなら、
胸が苦しいと思った。
残り少ない母の人生だけど「幸せだった」と思ってほしい。
物質的や、表面的な面ではなく、
精神的に母の人生は、どうだったのだろうか?
母は自分の人生をどう思っていたのだろうか?
入院する頃は、不安そうな、諦めがつかないような、
そんな顔をしていた。
入院直後、せん妄が起こり、
そのまま 何もかも分からなくなるのではないかと
2,3日 医師と私は、心配をした。が、
その後は 不思議な事に、
母は明るくなった。
現在の母の状態は、末期がんが問題ではなく
老衰状態だ。
食事もできるし、身体には、点滴の注射もなし、
食後に痛み止めのお薬を飲むせいか、
身体の痛みがある訳ではない。
病院を出る時「お母さん 仕事に行ってくるね」と
言うと、必ず「気をつけていっておいで。
何時に帰ってくるの?」と聞く。
「できるだけ早く帰ってくるから」と答えると、
「うん」と嬉しそうにニコッとする。
昨年の夏、突然のガン宣告で、
手術をするか、しないかの選択で、
危険な手術でもする事を、選び、
手術が成功し、この1年弱、母に優しく、
接する「時間」が与えられたこと、
母に親孝行をする「時間」が与えられたこと、
私はこんなかかわり方が出来ている事を
こころから感謝する。
母がずっと 安らかでありますように。
投稿日:15.07.2007
今日の出来事
今 何ができるのか。
ブログを書こうと思ってこのページを作ったのに、
あまりの忙しさで、わずか 10分の余裕がなかなかない。
6月18日 定期的に通っていた検診が最後になった。
6月21日 母が入院をする日がついに来た。
昨年 無事手術を終えて、ずっと恐れていた事。
医師から、もう通うのは、体力的に、限界だから、
入院か、自宅訪問をして行きましょう。と言われた。
それまで、自分のことは、自分で出来ていたが、
母は体力がなくなり、限界になりつつあった。
母は自宅養生を希望していた。
その理由はただ1つ 私と一緒にいたいから。
娘と一緒にいたい。1人は寂しい。
私もそうしてあげたいが、
結婚相談所、カウンセリング、お見合い、心理学講座、
事例研究会と 忙しい。
体が2つあれば、1つは朝から晩まで
母の側にいてあげたい。
1つは仕事がある。
自宅にいたら、誰もいないとき、
緊急事態が母に起こる事がとても心配だ。
息子夫婦も 昼間 母を連れてきてもいいよ、と
言ってくれるが、毎日、毎日、あっちへ連れて行き、
こっちへ連れて行くことは現実的には、
母にとっても、疲れる事だとも思う。
医師から今後の希望の返事をするようにと
言われながら、どうしたらいいのか、迷っていた。
「どうしたらいいんだろう!!」
ふっと 私が病院へ泊り込めば、問題は解決することに
気がついた。すぐ 医師へ電話をして、
泊り込みが可能か確認をした。
「もちろん 24時間 自由に出入り可能であるし、
泊まりたい時も 自由にしていい」と言って、個室を
用意して下さった。
8畳ぐらいの南向き、トイレ付きのお部屋は
まるでホテルのようだ。
本当に有難いなー。
24時間 完全看護で、やさしい医師、看護師に囲まれて、
母は穏やかに日々を過ごしている。
私は週5日 病院から事務所へ通い、
家事をし、まあー 目が回るとは この事かもと思う。
しかし 今しか 出来ない事。それを 大切にしたい。
いつかは、懐かしさで一杯になる日が来る。
その時、後悔をしないように、must ではなく
want でやって行こう。
投稿日:12.07.2007
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新年あけましておめでとうございます。昨年は大変お世話になりました。1月5日(木)より平常通り営業いたします。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。 代表 クッチマン悠基子
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良太さん 38歳 (自営業) 香織さん 28歳 (事務員)
香織さんはインターネットを観てご入会されました。おしとやかで、物腰のやわらかい素敵な女性でした。ご入会されたとき、私は内心「すぐ決まる」と高をくくりました。女性の会員様の典型的な特徴は、入会時は、積極的なのに、お断りが続いたり、思う人に出会えないと、活動が低迷する事が多いです。香織さんは、大変 熱心で決してあきらめない女性でした。その粘りにはある意味の敬服をします。お見合いが来なければ、写真を変えたり、試行錯誤で頑張るのですが、交際3ヶ月目で、何度も 破談になりました。夜の10時電話で1時間ぐらいお話をするのは、ざらでした。何がダメなのか? いろいろとお話をしました。「自分の価値観と一致しないと、うまくやって行く自信がない。」「自分の両親とうまく行きそうにない」「相手の家族と自分の家族」の考え方が合わない。これらの課題は、最近の多い傾向です。そして 2年月日が過ぎて、ほとんど結婚が決まりかけていた3ヶ月目 やはり 破談になりました。と同時に来た新しいお見合いをしました。「この人と一生いっしょにいたい」と感じた香織さんは、無事結婚が決まりました。その後 彼女から手紙が届きました。「この2年間は私の人生で本当に大切な月日でした。多く頂いたアドバイスは、私が私を再確認する貴重な機会だったと今つくづく思っています。時にはきついと思った事もありますが、それを忘れないで、これから幸せになりたいと思います。これからもよろしくお願い致します。」と書いてありました。また いつでも お茶を飲みにいらして下さいね。
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